2021年西念寺報恩講 法話 木名瀬勝氏(水戸市淨安寺所属僧侶)

2021年西念寺報恩講で法話される木名瀬勝氏

「帰れ」という呼び掛け

「名前を呼んでくれ」って言いますが、「阿弥陀仏」ではないんです。「南無阿弥陀仏」なんですよ。何で「南無」が付いているのか。それは「南無がないと阿弥陀様に遇えません」という意味なんです。正信偈に「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」という言葉があります。「南無」って何か。「南無」も「ナマステ」から出ているので、インドの言葉なんです。インドの言葉だから、「そうか、南無阿弥陀仏の“南無”というのは、日本語にすると“帰命”という言葉なんだ」ということが分かります。「帰命」の“命”は「命令」の“命”です。だから、阿弥陀さんの名前って不思議な名前なんです。「阿弥陀に帰れ」っていう名前なんですよ。だから、私も正信偈をお勤めする時は、「帰れ、無量寿へ」というふうな呼び掛けとして、いつも聞いているんです。「帰れ」という阿弥陀さんの命令ですから、「帰れ」って言われると「えっ、それじゃ、自分は今どこにいるの」ってことになるでしょ。自分が居る場所を分からなくちゃいけない。
そうすると、二つ問題になる。「どこへ」と「自分はどこにいるのか」と。人生というのは、いつの間にか電車に乗っていて、どこに行くか分からない電車に乗っているようなものです。いつの間にか、木名瀬勝という電車に乗せられて、「この電車どこに行くんですか」って聞いても、「そんなのお前の責任だ」ってね。乗らなきゃいけないんです。無理やり乗せられている感じがする。どこに到着するか分からない。ですから、「帰れ」という呼び掛けを私たちが聞く時には、「あっ、自分はここにどういう者として生きていて、だから帰らなきゃいけないな」ということが問題になってくるわけです。

「私」に閉じ込められた私

「私はどこに居るのか」、ちょっと思い返してください。皆さんが「私」って言い出したのは、いつ頃ですか。「私」「僕」「俺」って言い出したのは。大体、記憶が始まる頃と一緒なんですよ。早い人は3歳くらいですかね。その頃に私たちはそれを「物心がついた」と言います。物心がついて「私」って言い始める。これは現代の心理学の言葉で言うと、「自我」と言うんですけれども、実は私たちはこの時に「無量寿」という永遠の時間と、「無量光」という無限の空間から、人間が考えた時間と空間に閉じ込められたんです。「世界の中の、今、ここに、家にいる」というふうにね。「私」という者に閉じ込められてしまった。それが、最後の臨終の瞬間まで続くんです。
この時に何が起こってるかと言うと、「私」という所に閉じ込められた時に、「私」と「世界」というのが、分断してしまったんですよ。「私」が居て、世界がある。或いは、何か世界が一つあって、人間が一人ひとりその世界の中に居る。「私」が居て、その外に世界がある。これは物心ついて始まったんです。

繋がっていた「如」の世界

「私」以前のその前って、何ですか。「私」って知らない前の赤ちゃんの時代、あの時代は実は「私」と「世界」とが一緒なんですよ。別々じゃない。人間は考えることが出来ないので、これを仏教では「アミター」とか「如来」の「如」と言ってるんですよ。「私」と言う前の「世界」と「私」がまだ別れていなくて、全部繋がっている。これをお釈迦様は「縁起」とか「空」とか言ったんです。胎児ってのは、過去の生命の歴史を全部お母さんのお腹の中で経験して人間として生まれてくるんです。そうすると「私」と言い始める前の赤ちゃんの時代というのは、単に記憶が無いんじゃなくて、「如」の世界を私たちは生きていたんです。それが、「私」と言い始めた途端に全部、記憶の中から失われて、「私」が生きてるんです。この世界を「私」の都合のいいようにしなきゃいけないとかね。或いは、「これがほしい、あれがほしい」というふうになったんですよ。大きな、大変な「迷いの世界」に入ってしまった。「私」に閉じ込められて、この「私」を満たすために、外の世界を変えなきゃいけないとか、その世界を自分のものにしたいとか。それを仏教では「迷い」と言うんです。