2021年西念寺春季永代経 法話 光林忠明氏(坂東市西念寺)

以下は、2021年4月18日に西念寺の春季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>

はじめ

久しぶりにお話します。住職やってる間は頼まれれば他のお寺さんにも年に何回かはお話に行ったのですが、住職を譲ってからは皆お断りしております。今回は午前、午後2回の法話なので、ピンチヒッターで午前の部でちょっと話してくれということでした。4年も話してないんでどうかなと思うんですけれども、聞きにくいかもしれませんが、暫くご辛抱ください。

コロナ禍のご時世、世界的に皆、困ってるわけです。今日、お集まり頂いている皆さん方は、コロナによる「死」というわけではないですが、いろんなご事情でこの世を去られた方のお身内の方に、それをご縁にしてお集まり頂きました。亡くなった方を思い起こすとともに、今まで何十年も生きて来たけれども、この後、必ず自分も後を追って死んでいくということ、これはもう生き物の定めでございますので、どういうふうに生きるのが、先立って逝かれた人の本当の意味で死を弔うということになるのかな、ということをお考え頂ければと思うわけでございます。

「お経を読む」とは

仏教というと、仏様の教えという意味ですから、お釈迦様の説いた教えが仏教です。そのことを文章化したのが「お経」ですね。ですから、そのお経を読むというのは、お釈迦様の教えを自分たちが聞くということです。毎度、こういう時には申し上げておりますけれども、お経は亡くなった人のために読んでいるのではありません。自分達が亡くなった人達からどう見られているのか、お釈迦様から見ればどう見られているのか、どうしてほしいのか、ということを確かめることが「お経を読む」という意味でございます。どうもね、お経を読むというと、亡くなった人が迷わないように読んでもらってるのかなと思う概念がずっと沁み込んでおりますけれども、本当は「自分が聞く」ということになっております。私も久しぶりなので、もう一回、今までの復習の意味で「仏教って何なんだ」ということを考えてみたいと思います。

「天上天下唯我独尊」

仏教の言葉の中で皆さん、ちょっとでも覚えのある言葉は何かありますか。日常、私たちが使っている言葉のかなりの部分がお経の中から出てきた言葉が多いんです。「因縁」という言葉がありますね。「因縁つけた」なんて。「何の因果で」という言葉もありますけれども、それも皆、仏教の一番基本の教えの内容です。お釈迦様が生まれた時、生まれたての赤ちゃんが七歩歩いて、天と地を指さして、「天上天下唯我独尊」と言った。というふうに伝えられているんですね。今、多くの人は「何てお釈迦さんという人は尊大な人間なんだ」と。「この世で唯一人自分が尊いということを言ってる」「威張るにも、ほどがある」というようなことを言った総理大臣もいました。「唯我独尊」ですから、「我ひとり、尊い」。「尊い」と言ったんであって、「偉い」とは言ってないんですね。「偉い」と「尊い」では、だいぶ違うんです。「偉い」というのは、大体、自分が言うんですよ。「尊い」というのは、「あの人は素晴らしい人だな」というようなことで、他人が讃えるというような言葉になっています。お釈迦さんは何を「尊い」と言ったか。「世の人々の生死の苦を除こう」「生まれ、そしてその後、いろんなことに悩み苦しむ。そういう苦しみを本当に解き放したい」という願いを持った「教え」、それが人間世界において一番大切なこと、「尊い」ことなのだということで、受け継いで来たわけでございます。その教えは、人に「どうせい、こうせい」と言ってるんじゃないんです。「自分が本当に尊いというのは何なんだ」「皆、命は大切だと言ってるけど、その命を本当に尊く生きているんですか」ということを問い掛け、そして説き明かしている「教え」になっているわけでございます。