2021年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

悲しみを超えて“一緒に”

その方はもう長年、私の寺で聞法を続けてきた人でした。僕は葬儀が終わった後に、この悲しみを超えるにはこれしかないなということを言おうと思っていたんです。そうしたら、その人から言ってきたんです。何と言ったと思います。「これからも、親子三人、夫と共に一緒に生きていきます」って。これね、痩せ我慢じゃ言えないんですよ。この人は自分の悲しみを包んでくれるような阿弥陀さんの世界と出遇い続けたからこそ、それが言えたんです。その人は「私がこういうふうに夫が亡くなって、悲しいんだ、悲しいんだと言っているのは、それは私の思いに過ぎない。現実は、夫はこのような形で亡くなったけれども、夫はちゃんと私の中で生きているんだ」と。それから、法事もきちんと勤めている方でしたから、「夫の法事を勤める時には、必ず夫が『あなたたちも死んでいく身だけれども、不条理なことも一杯ある人生をどういうふうに生きて行くんですか』ということを呼び掛けてくれる。法事といえば、いつも夫が私を本堂に座らせてくれるから、夫はただの夫ではなくて、真実に導いてくれる仏さんなんだ」という、こういう戴きを持っていた人です。僕は本当に教えられました。死んだら勝手に仏に成らないですよ。仏さんだとこちらから戴かないと。基準はありません。こちらがそう感じるかどうかです。

真宗の「信心」とは

死に方は人間って悩むんですよ。皆さんもそうでしょう。やっぱり、いい顔して亡くなったとか、苦しまなくて良かったとか、死に方を気にするんだけれども、死に方を超えてですね、「やっぱり、夫はよく生きた」。そして、夫から「あなたはどう生きるんだ」と呼び掛けられているんだと。そういうふうな方向に転換して行く。そのことを真宗では「信心を戴く」と言います。

「信心」というのは、「私はあなたを信じます」ということではないんです。僕たちは「信じる」と言っても、疑ったりしますでしょう。僕たちが「信じる」と言うのも、こっちの都合で信じたりするわけです。本当の「信じる」ってことは、阿弥陀さんの心が私の中に溶け込んで、阿弥陀さんの眼から人生を見直していくっていう方向です。だから、「信心」と言っても、私が信じるんじゃなくて、阿弥陀さんから戴いたと。つまり、悲しみ、苦しみだけで終わりそうな人生だったものが、そうではなくて、夫と共に今も一緒に生きているんだということに頷かせてもらった。そのことを「信心」と言うんです。

人身受け難し

この亡くなった旦那さんの法名の下に、「70歳で亡くなりました」と書いた後に、「逝去せいきょ」と書かないで、僕は「還浄げんじょう」って書くんですよ。「浄土にりました」と。さっきの話ですけれども、「浄土に還った」ということと、それから、「今一緒にいる」ことは、実は矛盾しないんです。

ちょっと“いのち”というのを考えてみたいと思います。生命としては、これは期限があるので、皆さん必ず尽きます。順番もありません。死すべき縁があれば生命は尽きます。だけども、その生命全体を支えている大きな“いのち”があるわけです。皆さんの“いのち”って、一体、どこから始まっていると思いますか。大体、皆さんのお父さんとお母さんが出遇うってこと自体が不思議なことではないですか。これを宝くじに喩えてよく話すんですけれども、宝くじ、どうでしょうかね。一生の間宝くじを買い続けて、1億円が当たることありますか。まず無理ですね。ところが、皆さんの“いのち”はね、先ほど「三帰依文」を称える中で「人身受け難し」と読みましたけれども、1億円の宝くじが1回どころじゃない、1万回連続当たるのに等しいか、それ以上難しいんですよ。1回だって外れると駄目なんです。1億円の宝くじが1万回連続なんです。それで私たちは生れて来るんですよ。