2022年西念寺報恩講 法話 海法龍氏(横須賀市長願寺)

法話される海法龍氏(西念寺にて)

今年はコロナ下、3年目の報恩講でしたが、感染予防対策を行って、特に人数制限はなく実施され、帰敬式の後、約30人程の方が法話を聴講されました。法話は2年ぶりの海法龍先生のお話でしたが、いつもの歯切れの良い口調で、「報恩講」の意味や「お寺」「お経」の大切さ、更には正信偈のお言葉を引用・解説しながら、丁寧に教えを説いていただきました。今回もその主要部分を抜粋し、紹介させて頂きましたが、真宗の教え、正信偈の内容の理解を深めていただく上で、読者の皆様のお役に立てば幸いです。また他にも、講師ご自身の肉親の死やお孫さんの誕生の折の様々な思い等、大変興味深い話や印象深いお話も伺いましたが、紙面の都合で割愛させていただきました。ご了承ください。(編集委員会)

以下は、2021年8月17日に西念寺の夏季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>

※本文中の『勤行本』とは東本願寺出版社の『真宗大谷派勤行集』を指します

はじめに

西念寺様には一昨年、この報恩講に来させていただいて、お話をさせていただきました。二年ぶりということでもあります。コロナの状況も落ち着いたかなと思えば、また増えたりして来てますので、なかなかまだ不安定ですね。ですから、こうやって人が集まるということが、なかなか難しい面もあります。それぞれのお寺様が随分苦労され工夫されて、この報恩講や普段の年中行事やお寺の集いを行っていらっしゃることでもあります。今日は報恩講ですから、やはりこういう報恩講の時のお荘厳、特別のお飾り、そして特別なお勤めを行います。報恩講は何よりも私たち真宗のお寺、真宗のご門徒にとって一番大切な仏事なのです。

真宗門徒とは

西念寺さんも天台宗のお寺から浄土真宗のお寺に変わってらっしゃるという歴史があるわけです。そこにはやはり親鸞聖人との出遇いがあるわけです。親鸞聖人との出遇いとは何かと言うと、親鸞聖人が出遇っていかれたお釈迦様の教えとの出遇いですね。お釈迦様の教えとは、私たちがこの人生を生きて行く大切な道筋を示してくださった、人生のための教えなんですね。私たちが生きるための教えなんです。私たちはその教えの下に人生を生きるということを宣言した人達のことを「門徒」と言って来たんです。「真宗門徒」と言って来たわけです。

「真宗」という言葉は親鸞聖人が作られた言葉ではありません。善導大師の中にもありますし、様々な浄土教の先生方の中にも「真宗」という言葉があります。「真宗」というのは宗派の名前ではないですよ。お釈迦様の教えを表す名前なんですね。名称なんです。簡単に言えば、「真実」ということなんです。真実を「宗」とする、真実を生活の拠りどころ、生きる拠りどころ、基盤、目安にしていくんだ、ということですね。「宗」ということです。それを学ぶ生活。「学ぶ」ということは何かと言うと「聞く」ということです。正信偈や経文、経典を声にしますね。声にしたものが、自分にやっぱり聞こえてくるんです。聞くためにお勤めをさせて頂くんですね。私たちが聞いて、その御心をいただくために勤行というものがあるということなんです。これを「真宗門徒」と言うんですよ。

お釈迦様の御心をいただいて生きるから、そこに「釈」という お名前をいただくんです。つまりお弟子ということですね。「釈親鸞」のように「釈」二文字とか、女性の場合は「釈尼」二文字という、そういうお名前を名乗って歩まさせていただくわけですよ。「南無阿弥陀仏」という御心をいただきながら、その御心から自分の姿や自分の生き方を見つめながら、そして時代の問題をそこに問い訊ねながら、この人生を歩ませていただくという、そういう人達のことを「真宗門徒」と言っているわけです。

「報恩講」とは

なかなか普段の生活というのは、教えにお遇いしてると言っても、やっぱり自分本位で生きる私たちがいますから、「本当ということ」を教えられても、「本当ということ」になかなか従って生きて行けない。自分の心に従って生きているわけです。

自分の「善いとか悪い」とか、「好きとか嫌い」とか、「儲かった」とか「儲からない」とかね、そういうところに私たちの気持ちがありますから、どうしてもそこに基づいて生きてしまう私たちがいるんですよ。「俺が俺が」と言って、生きてしまってね、気付かないところで人を傷つけて、自分までも傷つけてしまう。そういうものが私たちの中にないとは言えないですね。

ですから、その教えに立ったという、仏弟子とさせていただいたという深い恩があるんです。南無阿弥陀仏の声をいただいて、「本当のこと」に触れてほしいという願いがあるんですね。

正信偈(勤行本17頁)に「応報大悲弘誓恩」という言葉があるでしょ。「応報」と書いてある。「恩に報いる」と書いてある。「真実に触れてほしい」という、弘く誓われた願いがある。

それを私たちがこうやってお勤めをして、ご法話いただいて、その願いを聞くわけです。そこに「本当ということ」を教えられる。その「恩」、それに報いる、応えていくというふうに仰っているわけですけれども、さっきも言ったように、自分の心で生きているから、なかなか「本当ということ」に従って生きていけない我々の悲しい姿があるんですね。悲しい姿で生きているからこそ、そこにお経の言葉があり、正信偈の言葉がある。「願い」が私たちに掛けられている。それを「応報大悲弘誓恩」と言います。「報恩の集い」だから「報恩講」と言うわけですね。

お寺は何のためにある

お寺と言えば、お経と言えば、これはもう亡くなった人達のためにあるというふうに、まあ思われるわけです。私たち生きてる者のために仏教、お寺があるんだっていうのは、なかなか一般的に、そういうふうには理解していただけないところがあるんじゃないでしょうか。では、お寺というのは何のためにあって、お経は一体何のためにあるのかというのは、やっぱり皆さん思われることですよ。ただ単に、死者の追善供養のためだったら、もう自分で追善供養すればいいんだ。お寺に行かない。自分で手を合わせればいいからということになってしまいます。お墓も何のためにあるかということですよね。そういう基本的なことが、もう失われてしまってるんですよ。基本的なことが分からなくなっている。

今の時代だからこそ、改めて「それは一体何のためにあるか」ということですね。そして、それが何百年、何千年の歴史の中でずっと伝えられてきたということは、その御心に出遇ってきた人達が大切に思ったからでしょう。そのことをね、やっぱり私たちがちゃんと受け止めて行かなければならないのではないかなということです。

お経とは何なのか

私が取っている新聞にこういう投書がありました。77歳の方です。一部を紹介しますと、『若い頃から葬儀のたびに「お経は何を言ってるのか」「歳を重ねたら分かるようになるのだろうか」と思っていた。しかし、80歳近くになっても分からない。母の葬儀をお寺にお願いした。お経の後、思い切ってお坊さんにどんな意味かお聞きしてみると、お坊さんは「意味は難しくて伝えられない」と言われた』とありました。

漢文のお経というのは、中国で作ったんですね。その前はインドから伝えられてきてます。それが翻訳されてるんです。元々はサンスクリット語でインドの言葉です。言葉が伝えられてきたんですよ。言葉を聞いた人達が深く頷いたことがあって、その頷いたことをまた言葉で伝えられてきたんです。そのお言葉をいただくということは、やっぱりそのお言葉の御心を聞かなくちゃいけない。受け止めて行かなくちゃいけないわけです。

言葉には「願い」があるんです。「願い」を形にしたのが「言葉」です。その言葉をもう一度、形にしたのが「お荘厳」です。だから、お荘厳のこの形には、この形の向うがあるわけです。ここに黒い箱があるでしょう。これには何が入っているかと言うと、経箱と言って「経典」です。これが基です。

だから、このお荘厳の向うには言葉がある。言葉の向うに何があるかと言うと、その言葉の向うには伝えて行きたい願いがある。では何を伝えたいかと言うと、「真実」ということを伝えたい。「南無阿弥陀仏」という言葉には願いが込められている。その願いは何か。「本当ということ」に触れてほしい。「本当ということ」に目覚めてほしい。そういう言葉ですね。

「救われる」とは

続いてもう一つ、『私たちが仏教に期待するのは、心の悲しみ苦しみから救ってくれることなんです。仏の教えを分かる日本語で心に届くよう話してほしい。それが多くの人の願いではないだろうか』と書いてあります。

法話というのは説明ではない。解説でもない。私たちの生き方をご一緒にそのお言葉に訊ねていく。そういうお話だから。坊さん自身が先ずは自分自身が受け止めていく。聞くということ。聞法と言うんですけどね、聞くということが何よりも大切なんです。だから、お坊さんも真宗門徒なんです。

「心の悲しみ苦しみから救ってくれる」、この「救われる」って何でしょうかね。「救われる」というのは、心の悲しみが無くなること、苦しみが無くなること。これが救い。どうでしょうか。

経典、お経のことを「修多羅」と言うんですよ。正信偈(勤行本18頁)に「帰命無碍光如来」「依修多羅顕真実」とあります。「修多羅」は経典のことです。スートラと言います。縦糸。生地は横糸があって、その横をバラバラにならないように、縦糸が通っているわけですね。縦糸が無かったら、生地が成り立たないでしょ。だから、経典というのは、「要」と言うんです。中心という意味ですね。スートラと言うわけです。

では、何で「中心」「要」かと言うと、真実が明らかにされている、真実が明らかに表されているからなんですね。真実が明らかにされているのが「経典」。だから、私たちが「真実ということに出遇っていくこと」が「救い」なのです。もう一つ言うならば、真実ということに気付かないで「本当でないこと」を「本当にする」ような心がある、ということに気付かさせていただくのが「救い」なのです。二重なんです。その二つを教えていただくんです。知らされるんです。

「真実」とは

仏様の真実という言葉は、正確に言うと、「真如一実」と言うんですよ。「真如一実の功徳宝海」と言うんです。難しい言葉ですけどね。「真如一実の功徳宝海」と書いてある。この世界を私たちは忘れているから、「ここに帰ってください」って書いてある。19頁に同じ言葉がある。「帰入功徳大宝海」と書いてある。その隠れている言葉、「真如一実」、つまり「依修多羅顕真実」。真実。何が真実かと言うと、「あるがまま」の私たちは代わりはいない。代わりはいないということは、私は二人はいない。世界中に私は二人といない。「唯一」ということですね。私たちの存在は唯一。そういう存在、そういう“いのち”を私たちは賜って生きているわけです。

「財産」とは

もう一人、祖父を亡くした27歳の会社員の方の投書ですが、『葬儀の時、新しい気付きがありました。菊や百合に飾られた遺影を見た時、その前に遺された家族は祖父が残してくれた財産なのだと思いました。ここにいる一人ひとりはお祖父ちゃんが残してくれた財産なんだ。“いのち”が確かに続いていることを強く感じたのです。財産は血の繋がりだけではありません。生前の祖父の何気ない一言も頭の中で反響して、私の行動に影響を与えます。迷った時、お祖父ちゃんがどう考えるかと想像します。少なくとも私の中では祖父は生き続けているのです』と書いてありました。

お祖父ちゃんの魂がどこかに行ったわけではない。ちゃんとそこにはお祖父ちゃんの人生が、一言一言がちゃんと記憶として刻み込まれている。普段の生活はすぐに忘れてしまうけども、手を合わせる中で、蘇って来るんじゃないですかね。財産と書いてある。財産って何ですか。普通の財産。一般的な財産と言うと、預金、土地、家屋、車、いろいろあるかもしれない。財産というと、全部お金に換算できるものが財産ですよね。

今の時代、みんなプライスです。人の存在もプライスです。労働力も金額、お金。それだけの仕事をしなければ、捨てられていくわけです。役に立つということも全部プライス。金額に換算された形で人間、存在するんですよ。人間の存在というのは、全部、そこに基づいた価値として私たちが受け止めてしまっているというね。恐ろしいことだと思うんですよ。本当の財産はお金に換算できない財産です。それを何と言うかと言うと、それを「宝」と言います。

「極濁悪」の私たちの姿

勤行本の32頁に「弘経大士宗師等」とあります。「弘経」はお経、経典。「大士」というのは、それを伝えてきた七高僧。お念仏の宗旨に出遇ってきた人達です。その人達がお経の心をいただいて、どんなことがその人達の中に開かれて来たのかと言うと、「拯済」つまり「救われた」と書いてある。「拯済無辺極濁悪」。経典は真実です。私たち存在の重みをそこに示す教え。それを「法」とも言います。その「法」に出遇って「救い」なんだけど、もう一つ「救い」がある。その救いは何かと言うと、「拯済無辺極濁悪」つまり「無辺の極濁悪が救われる」と書いてある。「無辺」って分かりますか。辺があるということは、限定が生まれる。無辺というのは、限定が無い。ということは、みんな、一切、すべて、ということですね。すべての私たちがどんな人であろうと、我々の姿、私たちの心の在り方は「極濁悪」だと言ってるんですよ。「極」は極み。何の極みかと言うと、「濁り」の極みと書いてある。濁ってるということは、「見えてない」ということです。それを「不見」と言います。見えてない。見えてないということは、分かってない。「無知」とも言います。仏教の言葉で「如実知見」です。あるがままの事実が私たちが分かってないし、見えてない。「量る」わけですよ。能力で量るわけ。優劣で量るわけ。自分にとって利用価値があるかないかで量るわけ。良ければ受け入れる。悪ければ消す。言葉にすれば簡単だけれど、もの凄く溝が深いことです。そして、そのことが起因となって、我々は悲惨な世界を生み出しているわけです。

「無明煩悩」我らが身に満つ

勤行本の12頁に「一切善悪凡夫人」とあります。すべて善いか悪いかで生きているわけですよ。比べて。そういう存在を「凡夫人」と言います。「凡夫人」というのは、気付かされた人ですよ。「善悪に生きている私なんだな」と気付かされたら、人間は痛みを持つんですね。「凡夫」という言葉には痛みがあるんですよ。

そういう私たちが「聞信如来弘誓願」(勤行本12頁)、つまり弘く誓われた願いを「南無阿弥陀仏」の言葉を通していただいていくんです。そして、知らされていく。知らされた私は、「真実」ということを知らされていく中で「真実」が程遠い、見えてない自分が知らされてくる。「悪」というのは、悪いことをしたという意味じゃないんですよ。「悪」というのは「無明」と言います。「悪」というのは「見えてない」んだと。「見えてない」というのを違う言葉で言うと、「煩悩」「無明煩悩、我らが身に満ちている」と。もう満ちているんですよ。この“いのち”も満ちているけれども、煩悩も満ちているわけだ。「無明煩悩」私たちの心、善悪の心ですね。それで、見えるものが「見えてない」というわけです。

「煩悩障眼雖不見」(勤行本29頁)とあります。煩悩、つまり自分の見方、考え方、価値観によって、「見えるべきものが見えてない」と書いてあるわけです。私の存在の尊さや、あなたの存在の尊さが見えてない。上手く行かなければ、自分さえも責める。上手く行けば、人を見下して、人を傷つける。そういう私たちが居るわけです。そういう私たちだからこそ、「大悲無倦常照我」(勤行本29頁)、いつも私たちに「南無阿弥陀仏」を通して、呼び掛けられている。呼び掛けられているんですよ。この願いに触れるための形、願いに出遇うための念仏。それが「南無阿弥陀仏」です。

おわりに

「へいわとせんそう」という絵本があります。谷川俊太郎さんという人が言葉を書いて、Norikakeさんという人が絵を書いている、とても良い絵本です。「平和の僕、戦争の僕」という頁がある。戦争というのはね、いわゆる国家の戦争も、民族の戦争もあるけど、戦争というのは傷つけること、傷つけ合うことだから、世の中で阻害するとか、虐待がある、学校や職場で虐めがあるとかいうのもね、戦争ですよ。「平和の私、戦争の私」「平和の父、戦争の父」という頁がある。これまた難しい問題だ。守るということに、暴力というのが何時もつきまとう。だけど、守らなくちゃいけないじゃないですか。危害を加えて来る者に対しては、向かっていかなくちゃいけないじゃないですか。ジレンマ。真実のジレンマですよ。これ課題なんですよ。自分が厳しい状況になると、もう“いのち”が見えなくなるんですよ。人間に見えなくなってしまう。そういう危うさを私たちは持っているっていうことを、やっぱり目を開いていかなくちゃいけない。そういうことを思わさせていただくことです。 (完)