2022年西念寺夏季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

「意味づけ」「価値づけ」

僕たちって、皆さんそうですよ、「意味」とか「価値」とか「条件」、この世界から絶対出られない。これは意味があるかないか。僕が一日で多く使ってる言葉は、「それ意味ないじゃないの」とか。これがですね、生きるという問題に関わってくると、人間は本当に掛け替えのない “いのち”を見失っていくんです。

一番生きることと関係してる問題は何かと言うと、平たく言うと、皆さんが生きていて、自分は「使える」人間なのか、「使えない」人間なのかということで、「生きる意味」を求めていることです。経済的に価値がある人間、生産性のある人間、それが大事で、例えば、会社の中でちゃんと役割を果たして、責任を果たすことによって、周りから評価される、そういうことにおいて、それが「生きる意味」と繋がっているのが現代なんです。多かれ少なかれ、皆さん、人間を見ないで名刺を見るでしょ。名刺を見て、何か凄い良いところの会社の社長さんだったんだなと思うと、この人、立派な人だと思うでしょ。そういうのが深く僕たちの中に入っているわけですよ。

だから、厄介なのが、生きることの意味というものを「使える」か「使えないか」で、「意味づけする」「価値づけする」ということにおいて、僕たちは生き辛さを感じているということなんです。上手く行っているうちはいいですよ。上手く行ってるうちは。例えば、会社にいただいた責任を果たした。人から評価された。現代の人間ってのは、自分が独立して活き活きしていると言った場合にね、本当に独立している人ではなくて、評価される自己なんですよ。評価されることを自分だと思って生きているんです。

「自我分別」で苦しむ

「役に立つのが良かったんだ」という、そういうことに意味があるんだ、価値があるんだと思ってるから、役に立たなくなった自分を認めることができない。そうやって分別して苦しむんですよ。僕たちの思いというのは「分別」です。皆、それで苦しむんです。

だけど、阿弥陀さんの教えは、「老いたまんまに尊いよ」「障害を持ったまんまに尊いよ」ということです。そうすると、どんな形の自分でも受け止めて生きる力を与えてくれる。

でも、僕たちにはそれは出来ないんですよ。最後の最後までこの「意味」に振り回されている。阿弥陀さんの世界は実は、「分別」に対して「無分別」です。「そのまま」、「在りのまま」。この世界に触れないと、僕たちは助からんのです。人間だけが「分別」を持ってしまった。皆、大きな “いのち”の世界から生まれたのに、人間だけが「分別」、「自我」を持って生きてるもんだから、苦しむわけだけど、苦しんでる人間がいるからこそ、南無阿弥陀仏の教えが非常に有難いですね。大きな大きな “いのち”の世界、繋がりを持ってる世界は、元々「分別」のない世界。だから、僕たちはその世界を「浄土」と思ってるんです。

無上尊

生きることについて「意味づけ」や「価値づけ」をせずにおれない迷い深い私たちの愚かさに気付きを与える。存在の尊さに目覚めさせるのが、親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さんの教えです。一言で言うならば、これが仏教です。

『吾当に世において無上尊となるべし』という言葉があります。無上尊。無上というのは、この上もない、比較を絶している、比較を超えているというものです。そのまま尊い。これもやっぱり人間の自我分別の世界から出ないとこのことは言えない、ということをここで表しているから、「なるべし」と書いてある。ということは、僕たちは生まれた時にもう掛け替えのない尊い “いのち”をいただいている。存在の尊さをいただいているんです。

ところが、自我分別によって「ああでもない」「こうでもない」、「何が意味がある」「何が価値がある」とやっているうちに、自分が受け止められない問題が出て来ると、「尊さ」がどこか行ってしまうんです。