2022年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)


臨終の一念にいたるまできえず

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、(一念多念文意)

親鸞聖人は絶対に人間を誤魔化さなかった人ですね。訳を見ますと、正に当ってますね。「凡夫」、私たちですよ、「私たちは、真理に暗く、わかったつもりになって、自分のあり方にまったく気づかないことが私たちの身に満ち満ちていて、欲望も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの心が絶え間なく起こり、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもありません」。これが私たちの姿です。それに全然気が付かないで、自分を正当化していくと、全部正義になってくるでしょう。戦争は全部、正義の名の下にやるんです。悪いのはウクライナだと。そういう形になるわけです。いくらでも嘘が付けますね。

地獄をつくり出すのは私

地獄が棲家なんだと絶望してるんじゃなくて、地獄を作り出すのは私なんだということに気付かされて、いよいよ阿弥陀さんの教えを聞いて、阿弥陀さんの眼から人生を見直していきましょうと。だから、凡夫を止めることは出来ないんです。むしろ、阿弥陀さんは堂々と凡夫に還りなさいと。悩んでいるあなたの上に実は教えが与えられる。ここが大事なところです。凡夫だからこそ阿弥陀さんの教えに遇うことが出来るんです。僕たちは阿弥陀さんの教え、本願の祈りに照らされた凡夫なんです。ここが大事なんです。阿弥陀さんの教えを聞いたら、凡夫でなくなるんじゃないんです。仏さんになっちゃうんじゃないんです。仏様になるような方向性を貰ったり、或いは言葉を変えると、浄土という無条件のありのままの世界に生まれていくような方向性をいただいたりします。凡夫で悩んでいることが、実は、阿弥陀さんに遇っていくんだという力強い教えなんです。凡夫だから駄目だと言ってるんじゃないんです。親鸞聖人は「地獄は私の棲家だ」と言って喜んでいるんです。私のような地獄しか居られないような者のために本願が祈ってくださってるんだ。そういうことなんですよ。ここが非常に大事です。

おわりに

本文の最後のところに、締めくくりとして次の文章を載せてみました。

この人間の相(すがた)を「罪悪深重の凡夫」だと教えられてきました。自我分別を抱えたままで、それを超えた無分別(そのまま、ありのまま、無条件)の阿弥陀さんの本願念仏の世界(浄土)が私の上に開かれてくるのです。迷いを拠りどころとせず、阿弥陀さんの眼で人生を見つめ直すという「転換」を通して、存在の尊さが回復していくのではないでしょうか。その要は、教えが聞こえてくることを通して、罪悪深重の凡夫と目覚めることにあるのです。世界中の誰もが「愚かな凡夫と目覚めよ」という本願の祈りに耳を傾ける時ではないでしょうか。まさに時機純熟の教えです。凡夫の自覚が存在の尊さの回復に繋がることを皆さんとご一緒に聴聞して参りたいというふうに思います。

(完)

この文章は、2021年4月18日に西念寺の春季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>

<編集後記>

2年以上経っても依然としてコロナ禍が収束しない状況下ですが、春の永代経法要は参加人員を制限して予定通り行われました。今回の法話はお馴染みとなった蓮光寺の本多住職より「本願の祈り〜存在の尊さに目覚める〜」と題して大変貴重なお話を戴きました。

折しもウクライナでの戦闘が激化し、多くの“いのち”が奪われている最中でもあり、ご法話の内容は「存在の尊さ」「罪悪深重の凡夫」への目覚めの大切さを強く認識させられたお話でした。今回の掲載につきましては、紙面の都合で法話の前半の主要部分のみを抜粋してお伝えしましたが、後半には多くの具体例の紹介がありますので、また機会がありましたら、ご紹介させて頂きます。ご了承ください。(編集委員会)