既読のつかない「無事?」 <学生時代の友人について>

住職のひとりごと

今年の年明け、山陰地方で大きめの地震があった。松江に住む大学時代からの友人にスマートフォンでメッセージを送った。無事を確かめたいというより、久し振りにやりとりするきっかけが欲しかったからだ。

気象庁のホームページより

しかし、何日たっても既読がつかなかった。彼にはずっと持病があり、体調が思わしくないのではという思いが強くなる。都内に住む共通の友人に聞いてみるが、彼も事情は知らず、自分もメールしてみるとの返事。結局、その友人も彼とは連絡が取れなかった。数日後、地方新聞社のホームページの訃報欄に本人の名前が見つかったと連絡が入った。彼は昨年、亡くなっていたのだ。

いると思っていた人がすでに亡くなっていたという喪失感。後日、通った大学の近くに集まり、彼との思い出を話し合った。一緒に過ごした場面や、声の様子、最後に彼が上京したときのことなどが、次々と心に浮かんできた。自分の人生での彼の存在があらためてはっきりと感じられた。

友人は、その日までに、彼に何が起こったのかを知ろうと様々な人に連絡を取っていた。そして、亡くなって間もない頃、たまたま彼の携帯に電話していた人までたどり着いていた。その人は電話に出られた親御さんから、持病とは別の病気が見つかり亡くなったこと、家族に「大変だから友人には知らせなくていい」と言っていたことを聞いたという。

最後に私が彼と話したのは、やはり松江で大雨の被害が出ているという報道にふれた時だった。それが最後の会話になるとは思っていなかった。もっと関われたのではないか、大切にできたのではないかという思いが浮かんでくる。定期的に上京していた彼と会うたびに、「そのうち自分が松江に遊びに行くよ」と話しつつ、彼が来てくれることに甘えてしまっていた。

彼は大変だからと言ったが、自分は最後に顔を見に行きたかった。一緒に見送りたかった気持ちが湧いてくる。近いうちに、松江の彼のお墓まで会いに行けたらと思っている。