私の出遇った大切な一言

住職の出遇った一言より(2025年4月東京教区慶讃法要のコーナーにて)

2023年、京都の本山で執行された慶讃法要(親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年)が、この4月東京教区でも勤まり、私・住職もスタッフとして参加しました。

日程中「私の出遇った大切な一言」という題で数名が短いお話をするというプログラムがあり住職も担当しました。今回は私がお話しさせていただいた内容をご紹介いたします。

人間だから何だって言うんですか

大学生の時、心理学の講義で先生が言われた「人間だから何だって言うんですか」という一言は、私にとって忘れられない大切な言葉です。

大学に入学して間もない頃、心理学全体を俯瞰する講義がありました。動物を対象に研究されている先生の講義は、条件付けや行動原理といった内容で、心理療法への興味から心理学に関心を持った多くの学生にとって、どこか遠い世界のことに感じられました。そんな教室の、戸惑ったような空気を敏感に感じ取られた先生から、問いかけられるように発せられたのが、この言葉でした。

その時、私はまだその言葉にピンときていなかったのですが、次第に、その言葉が私の中で大きなものになっていきました。今でも時々脳裏によぎる言葉です。

人間と動物

これまで私は、人間は他の動物と切り離された存在だと漠然と感じていたのだと思います。しかし、学んでいく中で、人間は生物の一種であり、行動や心理には共通点が根付いていることを知りました。

感情についても示唆を受けました。実験によく使われるラットにおいて、新しい環境でも活発に動くラット同士、逆にあまり動かないラット同士を何世代にも渡って交配させ続けると、生まれながらにして恐怖や不安を感じやすい系統とそうでない系統が明確に分かれるという研究があります。実験の授業で実際に不安の強い系統のラットを抱き上げた時のことは、今でも鮮明に覚えています。小さな体は小刻みに震え続け、その心臓の鼓動が私の手のひらにまで伝わってきました。このラットはこのような特性を持って生まれてきて、これからも生きていくんだなと。

存在の尊さとは

どのような特性を持って生まれるかということは、その存在にとってまったく責任がありません。人間の社会では、時代や文化によって理想とされる人間像が声高に叫ばれ、私たちは、その理想に近いかどうかで評価されます。理想的ではなくてもそれに向かって努力をしているかどうかで評価されることが多いですが、同じことをする努力でさえ誰もが同じようにできるわけではないのです。

これらのことは「尊さとはなにか」を考える時、いつも私に影響を与えています。

人間とは

そして、「人間だから何だって言うんですか」という問いかけは、同時に「では、何をもって人間と言えるのだろうか」という問いを私に投げかけました。

複雑な言葉を操れることがその一つだと思います。言葉は、私たちが親鸞聖人の教えに触れられたように、時間を越えて伝わります。科学技術の発展も、段階を踏んで思考できる言葉があるからでしょう。

しかし、言葉には、思考だけが一人歩きして、実態から離れ、しかもそれに気づくのが難しいと言う側面もあります。多様性を認め合うことが大切だと心から思っていても、集団の中でどうしても相容れない人と活動することに苦しむ。そして、思ったようになれない自分にまた苦しむ。言葉にはそのような側面があることを忘れないようにしたいと思います。(住職)

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