<法語>2026年9月(西念寺)

私たちが命を終えることができるのは、

そもそも命を与えられているからです

本山・東本願寺のお盆のリーフレット(2026年版)にあった言葉です。

誰もが一度は「私のいのちも、やがて終わるのだ」と考えたことがあるのではないでしょうか。普段は意識しなくとも、病気や大きな怪我をしたときなど、その思いが頭から離れなくなることもあります。

一方で、「いのちを与えられて、今ここに生きている」と常に実感しながら過ごしている人は、そう多くないかもしれません。 私たちは幼い頃、「すでに自分として生きている」と気づいたところから、意識の上での人生が始まります。気づいたときには、当たり前のように生きていた。だからこそ、いのちがあることを当然のことと受け止めがちなのかもしれません。

個々の生物のいのちは有限です。しかし、今こうして自分として生きているいのちは、気の遠くなるようなはるか昔から、一度も途切れることなく受け継がれてきたもの。人間だけでなく、すべての生きものも同じです。私たちの背景には、無限のいのちの連なりがあります。

その無数のいのちが関わり合って成り立っているのが、この世界です。「あなたはあなたが食べたものでできている」という言葉がありますが、食卓に並ぶ料理の食材の一つひとつが、無限につながってきたいのち。私たちは、いのちをいただきながら生きています。

大きないのちのはたらきの中に、私のいのちがある。そう頭ではわかっていても、流れに身を任せて穏やかに生きるのは、難しいものです。捕まえようとした魚がすごい速さで逃げるように、いのちあるものとして、少しでも生き延びようとする本能が備わっているのでしょう。その仕組みがあるがゆえに、私たちは平和を願いながらも、自分と他者を切り離し、争いや迷いの繰り返しから抜けられずにいるのかもしれません。

それでも、私自身にも、目の前にあるものの一つひとつに、果てしない背景があること。すべてのものが深くつながり合っていること。 そのことに、思いを馳せる時間を大切にしてみませんか。(住職)

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