2025年真宗門徒秋のつどい 法話 寺本温氏(長崎県真蓮寺)

東京湾を一望する内房総・木更津の海辺に建つホテル三日月にて、去る2025年10月13日~14日の二日間、2025年度の東京教区「真宗門徒秋のつどい」が開催されました。当日は「仏法を聞く友とつどい、そして語り合い、ともに仏法の温泉につかろう」との呼び掛けに、関東各地から僧侶、門徒が集まり、長崎県の真蓮寺のご住職、寺本温先生の2日間にわたる講義、座談会、懇親会など、大変充実した内容の行事が行われました。
今回、西念寺より住職と門徒1名が参加しましたので、ご参考までに初日の講義の話題の中から、特に参加者より印象深かったとの声が多かったお話を一部、抜粋して紹介させていただきます。
(編集委員会)
以下は、「真宗門徒秋のつどい」にてご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>
講題:凡夫を生きよ ~願いによって開かれる世界~

「学答」と「学問」
人間がする人間の教育、学校教育というのは、やっぱり「出来上がり」を言われるわけです。私たちが学校でしてきた学びというのは「学答」ですね。名は「学問」というけど、答えを学ぶ。先生が教えてくださることを一生懸命聞いて、理解して、覚えて、そして答えがちゃんと言えたり、テストで書けたら褒められるという世界が「学校」です。それをずっとしてきたからね。やっぱり聞法してもね、何か理屈を学ぶ、そして覚えて、というふうにはたらいてしまう。
けど、人生のこと、仏法のことは、それこそ本当に「学問」でしょう。「問いに学ぶ」。「何のため生まれ、何のために生きるのか」というようなことですが、「自分が自分に生まれ、自分が自分として生きていくことが、本当に尊いことだ」ということが戴けるんですね。普段の言葉で言えば、本当の意味で「生まれてきて良かった」と言えるものが、何なのか。仏教の救いって、そういうことでしょう。何かね、立派になって救われるわけじゃないんですよ。
自力の善人の「闇」
「一念多念文意」の中にですね、
「自力というは 我が身をたのみ 我が心をたのむ 我が力をはげみ 我がさまざまの善根をたのむ人です」
とこう教えて下さっています。
人間というものはですね、自分に生まれて、仏法に出遇うということがなかったり、出遇っても仏法を忘れて生きる時は、もう自力よりないです。「我が身をたのみ 我が心をたのむ」ですね。そういうことがね、「闇」の人生を作くっていくのだと、こう念仏の教えに照らされながら、親鸞聖人は歩んでくださったと思います。
「自力の善人の闇」ということですが、ここで言う善人は、周りの人が「ええ人やな」と褒めてくれる善人ではなくして、「我が身をたのみ 我が心をたのんでおる」そういう善人ですね。つまり、自分をたのむ者は、「自分はもう間違いない」といい、考えんでもそういう心を生きていくということですね。だから、何が起こるかと言うたら、自分の考えと違う者や、自分と違う生き方をしている者が認められない。「あいつはつまらん」と言う。つまらんと言われた者が「ああ、そこには気付かんかった。よう言ってくれた」と言うてくれるならいいですよ。「俺をつまらんと言う。お前こそ、つまらん」と言って、善人と善人が競っていく。喧嘩していくわけです。つまり、「我が身をたのみ我が心をたのむ」自分を善き者だと思い込んでおる、そういう「闇」。それは仏法に出遇わないと気付かされんということだと思います。
茶碗を割った、茶碗が割れた
「自分のことは自分が一番よう知っとる」と、こう思っておりますが、「仏道をならうは 自己をならうなり」、そういう時にね、いつも出すのが、「茶碗の喩え」です。失敗して茶碗を割ることがあるでしょう。自分以外の人が茶碗を割ったらね、「ああ、茶碗を割ったね」って、事実をすらっと言えるわけです。全部言わんでも、「犯人はあなた」ですねって。ところが、自分が割った時、そうは仰らんのじゃないですか。「あら、茶碗が割れた」って。茶碗が勝手に割れて、悪いのは誰でしょうみたいな。自分が割った時は、そういう物差しでみておる。他人が割った時は「茶碗を割ったな」って、もう事実がすらっと言えるのに、自分というものが絡んだ瞬間にね、事実が言えなくなるんですね。そこが「善人の闇」なんです。自分を善き者と思い込んで疑いもせん「我が身の事実」。こういう自分をちゃんと戴くことができるんです。
自分の物差しで聞く 自分の物差しを聞く
道元さんという曹洞宗の開祖、福井県の永平寺を開かれた方です。その方が「仏道をならうは自己をならうなり」という言葉を残してくださった。「仏道をならうは 自己をならうなり」ですね。つまり「私たちが仏法を戴くということは、自分のことを教えて戴くんだ」ということですね。さらに、近々、亡くなられた三重県の池田勇諦先生が「聞法するということは、自分の物差しで聞くのではなく、自分の物差しを聞かして戴く」つまり自力の善人は「我が身をたのみ、我が心をたのんで、自分こそ間違いがないと思うから、自分の物差しで聞く」わけですよ。そうしたら、「分かるか、分からんか」ということがね、何か最優先のように思うんですね。「分かるか、分らんか」ということは、どうでもいいとは言わんけれども、それが目的じゃないわけです。学校の勉強じゃないから。ですから、一つの講座の中で、一つでも、二つでも、「あっ、これだけは自分にとって大切だったな」ということがあれば、僕は幸いだと思います。自分を善き者として、自分の物差しを疑わない善人よりも、自分の物差しの当てにならん、自分の愚かさを知らされて頷いた悪人こそが、仏法、仏道を戴き易い。そういうことが、「歎異抄」の第三章に出てくるんですね。ということはですね、教えを戴くと、理屈では「悪人こそ救われる」なるほどと思うけど、実際の生き方はどうでしょう。「善人としての自分を生きておる」ということがあるわけでしょう。


