<法語>2026年5月(西念寺)

“健診結果 先生が 首をかしげた

急に いのちが 当たり前ではなく 迫ってきた”

病院で検査の結果を待つ時の、あの張り詰めた緊張感や不安…。誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。 健康な時は、身体が動くことを当たり前のように思い、その有り難さを意識することすらありません。私たちは、日々の営みが数え切れないほどの「縁」によって支えられていることを、つい忘れがちです。

ところが、いざ医師から不調を指摘されると、自分の身体の一部が急に恨めしく感じられたりもします。 それは、不意の「停電」に似ているかもしれません。夜、突然明かりが消えると、それまで当たり前にできていたことが不自由になり、「なぜ今、こんなことに」と不満さえ覚えます。しかし同時に、それまで意識もしなかった電気の有り難さを身に染みて知るのです。私たちの身体も、それと同じではないでしょうか。

よく考えてみれば、自分を生かしている仕組みを自ら作ったわけではありません。心臓が今この瞬間も動いていることさえ、自分の意志でコントロールしているわけではないのです。私の思いを超えた大きなはたらきや、無数の縁が重なり合って、今、私のいのちがここにあります。

法語にある「迫ってきた」という言葉は、生きていることが決して当然ではないという真実に、気づかされたということなのでしょう。 その自覚があれば、春の花を眺める時も「毎年咲くもの」という単なる背景ではなく、今、目の前で出遇えたことの不思議や、それを見ることができた喜びが湧いてきます。

いのちに終わりがあるからこそ、今この時間が尊く、何気ないと思っていた日常が、二度と戻らないかけがえのないものへと変わっていくのです。(住職)

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