2022年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

生きる意味とは

最近、「生きてる意味があるとか、ないとか」といった言葉が凄く使われてますね。意味で人間をおさえることは本当は出来ないんですよ。例えば、今年早々、焼肉屋に立て籠もった若い子がいましたね。あの子は「俺なんか、世間では馬鹿にされてるんだ。生きている意味がないと思ったので、悪いことをした。死刑にしてほしかった」と。そうやって何か経済的に駄目だと、自分なんて生きていてもしようがないという風潮が強いんですね。何か自分の思い通りにならない、自分が世の中に生きていても、存在している価値が見い出せないということになると、自分を自分で破壊していくんですよ。例えば、お年寄りの場合もありますね。忘れっぽくなって、何かちょっと運動すると身体が痛いし、「昔は良かったな」「私は役に立たないから、できればぽっくり死にたい」と。それは、明治維新以降の立身出世主義から来ていて、自分が使えなくなったということは、使える人間がいいんだという価値観を持って生きてきたわけですよ。それは、やっぱり自分で自分を破滅する方向ですね。この焼肉屋事件の後、またありましたよね。東大に入りたいんだけれども、どんどんどんどん成績が落ちて行って、東大に入れないと思ったら、受験している人に恨みを持って刺したじゃないですか。あれは、上手く行かない自分に対してではなく、他者に行くんです。事件としては、津久井やまゆり園の事件が一番大きいでしょう。犯人は「障害者は生きている意味がない」と言ったでしょ。他者に向かうんです。人間の自我構造というのは、今ある中で自分が思う通りになってるか、なってないかによって、全く違った形で表現されるんです。

罪悪深重の愚かな凡夫

そういう「人間の自我」を照らし出していくのが、阿弥陀さんの教えだから、親鸞聖人が「本当に救われ難き身である」という言い方をされるのは、阿弥陀さんの「本願の祈り」によって気付いたということですよ。今までは、上手くいったら救われるとか、そういうふうに考えていたけれども、初めて「自分の在り方が救われない身なんだ」ということに気付いた。だから、存在の尊さに目覚めるためには、人間は誰も「罪悪深重の愚かな凡夫」だっていうことを自覚しなきゃいけない。その現実を受け止められないで、自分を駄目にしてしまったり、相手を恨んで攻撃してみたりと、自分の思いに沈んでいってる。だから、罪悪というのは、悪い行為をしたということではなくて、存在そのものに罪があるんだということ。その存在そのものに罪がある僕たちが、掛け替えのない存在に転移していくためには、「本願の祈り」が必要なんですけれど、その罪悪というのは、今言ったように「自我分別」のことなんです。分別するから必ず差別していくんです。そのことに気が付かないで、自分がやってることを叶えようとして外に向かってお願い事をしているということは、それは現実を引き受けて行く力を奪っていくから、阿弥陀さんは「まず自分の在り方に気付きなさい」と言ってます。だから、親鸞聖人は救われ難い身であると知って、落ち込んでいるわけではないです。「その救われ難き私の上に、実は教えが用(はたら)いてくれるんです」ということを言いたいんですよ。私は絶対救われない身だとわかった。ところが、この救われない私を丸ごと救ってくれるのが阿弥陀さんの「教え」、「本願の祈り」だと、こういうふうに親鸞聖人は押えているんですね。


地獄は一定すみかぞかし

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
(現代語訳:本来、どのような努力によっても,仏になることのできない身でありますから、どうあがいても地獄は私の必然的な居場所なのです)

これは、歎異抄の有名な言葉ですけれども、絶望で言ってるわけではありません。訳を見ますと、皆、地獄に行きたくないから、宗教に入りますけども、逆ですよ。「本来、どのような努力によっても、仏になることのできない、どんなこともご縁として引き受けて歩いて行くことが出来ない身でありますから、どうもがいても地獄は私の必然的な居場所なのです。地獄を作ってるのは他の人ではなくて、私の在り方なんだ。そのことを阿弥陀さんから教えていただいたんだ」と。そういうことですよ。だから、真実に遇うということは、自分が真実ではないということを知ることなんです。それが教えということなんです。今まで自分が正しいと思っていたこと、自分がやってることが、真実ではなかったといただくことが、教えに触れるということなんです。だから、「罪悪深重の凡夫」ということを通して、私の存在が比較を超えてこの上なく尊いんだということに目覚めていくことが、今、世界中に求められていることなのではないかと思います。