2026年 西念寺永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

「善悪」は存知せざるなり
善悪について、一番はっきりしている有名な『歎異抄』の言葉があります。親鸞聖人は阿弥陀さんの呼び掛けに対して、次のように受け取られました。
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
これは『歎異抄』の後序にあるお言葉です。訳すと、親鸞聖人はこう言っているわけです。「何が善であり何が悪であるか、私は全く知りません」と。
もう少し丁寧に言うと、「私のような愚かな者、私のような悪人には、あるいは私のような凡夫には、全く分かりません」ということです。
これは単に「分からない」と言ったんじゃなくて、阿弥陀さんの真実の信心のはたらき――「信知」というものが背景にあっておっしゃっているんですね。
『歎異抄』を書いたといわれる唯円は、「親鸞聖人はこの言葉を“常の仰せ”として年中言っていた」と書いています。何でこれを年中言っていたかというと、私たちは「煩悩の身」を生きているからです。
煩悩ってね、法話を聞いた後に「少し減ったような気がします」と言う人が必ずいますけど、煩悩は増えたり減ったりしませんから。煩悩が私なんですよ。煩悩の固まりで出来ているのが、私たち人間なんです。だから、情況によっては「善悪」なんてコロコロ変わってしまう。親鸞聖人はそのことを常々教えられているのですが、私たちはそのことすら気付いていないんです。。
「善人の素振り」をしていませんか
もう少し言うと、僕たちは「悪人なのに善人面をしている」ということです。善人根性で生きている。『唯信鈔文意』という書物には、「外面に賢い振る舞いをして、善人の素振りをしてはならない」とあります。ということは、僕たちは普段、外面を賢そうに見せて、善人の素振りをしてしまっている。あたかも仏道に励んでいるようなふりをしている。
仏教を聞いて「善悪のことが分かりました」などとは、とても言えることではないんです。これは日常生活のすべてにおいて言えることで、私たちは心の中に嘘、偽りを抱えながら、善人振る舞いをして生きているのではないでしょうか。


