2026年 西念寺永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

悪人とは

有名な『歎異抄たん に しょう』の第3章に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。

現代語訳を見ると、「自分を悪人と思っていない善人」――つまり善人というのは、自分が悪人であると思っていないから無自覚なんです。それに対して、「自分を悪人と思っていない善人でさえ往生できる(迷いをひるがえして生きる意欲が与えられる)のなら、阿弥陀さんによって自分を悪人と目覚めた人が往生できるのは言うまでもない」ということです。

普通に読んだら、「善人が往生できるのが当たり前なら、なんで悪人もできるんだ」と取ってしまいますが、そうじゃない。善人というのは自分が悪人だということに無自覚な人なんです。その無自覚な人が救われるというのなら、悪人と目覚めた人は当然、救われるはずでしょう、と。そうすると、善人とは何か、悪人とは何かがだんだんと分かってきます。悪人というのは、煩悩の身を生き、罪の身を生きている人のことをいうんじゃないでしょうか。

また『歎異抄たんにしょう』の第13章には、「さるべき業縁ごうえんのもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という有名な言葉があります。人間というのは、縁さえあればどんなことでもしてしまうんです。ニュースで「老老介護」が問題になっていますよね。70過ぎの一人息子が、90を超えたお母さんを介護していて、疲れ果てて母を殺し、自分も殺してしまう。これ、本当に責められるのかなと僕は思うわけですね。

でも、現代社会は「悪いことをした人に罰を与える」ということで留まっているので、「人間とは何か」ということが全然分からないままになっています。

開かれていく関係

「誰でもが救われる」ということは、どこまでも自分がおろかな者だということを自覚させてもらうことにおいて、閉じていた人間関係や、自然との関係が開かれていくということです。「いや、お前が悪い。私が正義だ」と言っている時には、何も開かれてきません。

現代が見失ったのは、この「罪の身、煩悩の身を生きているんだ」という自覚です。この教えは、今、最も待ち望まれているものだと思います。ここまで人間が「自分が正しい」と思って譲らない社会になってくると、なかなか心が開かれてきませんが、人間を開いていく教えがあるとしたら、この「南無阿弥陀仏」しかないんじゃないかなと、そう思います。(完)