2021年西念寺春季永代経 法話 光林忠明氏(坂東市西念寺)

六道輪廻の世界

昔のインドではバラモン教というのが主体の宗教でしたけれども、今はヒンズー教と言ってます。人間の命は、人間の命に限らず、命はすべて消えない。巡り巡っている。今、人間界に生まれているのが一番いいんです。「輪廻転生」という言葉があります。命は終わらない。この世で人間として素晴らしい世のための行いを尽した人は、更に人間に生まれて、もっといい地位に就く、ということになっているわけです。そうでない人は豚になるかもしれないし、犬になるかもしれないし、人間に生まれても、当時のインドですから、非常に最下層の身分の低い、そういう人間に生まれてくるかもしれない。だから、善いことしなさい、ということになっていたのですけど、そういう考え方ですから、次にどういう命として生まれ変わるか分からないという命を、その当時の人達は生きているわけです。いわゆる「カースト制度」ですが、今でも、インドでは政府も一生懸命、それをもう止めようということをやってますけれども、なかなか一回沁みついた感覚というのは消えません。そういう「六道輪廻」の命が巡って巡って、何に生まれるか分からないという、そういう巡り方から、「輪」から脱出したい。これがその当時の願いでした。

釈迦族・王子の悩み

お釈迦様が生まれたのは、今から2600年前と言った方がいいかもしれませんが、その頃のインドでも皆、そのカースト制度を信じて疑わなかった。当たり前のこととなっていたわけです。そういう世界、思い込みの世界から解放されたいというので、当時、インドでは出家者が沢山いました。悟りを得たい。しがらみのない世界を見開きたいということで、様々な苦行をやったり、物を考えたり、討論したり、という出家者が沢山いたのです。そういう時代に、お釈迦さんは釈迦族の王子として生まれたわけです。何不自由なく暮らしていたのですが、ある時、農民が畑を耕していたら、虫がちょろっと出てきた。それを見て、鳥がさっと飛んできて、啄んで行った。その小鳥を大きなワシが掴んで食べた。そのワシを弓矢を撃って人間が捉えて食べた。それを見て、「ああ、生き物は皆、こうして殺し合ってるのか」と。殺し合わなければ生きて行けない。事実ですね。餌を食べなければ、人間も食べなければ生きて行けないわけですから。そういうことで、王子は非常に悩んだ。「皆、生き物は殺し合うのか」と。それを見た父親である王様が、そんなに打ち沈んでいる王子を何とか元気づけたいということで、旅行というか、ピクニックというか、「城の外へ出て、気晴らしに行ってきなさい」と外出を勧めたんですね。

「四門出遊」の故事

そして、王子が城外に出たら、ある時、村に病人がいた。病気で苦しんでいる人を見た。それで、その苦しみを見て、やはり余計沈んでお城に帰ってきた。また別の時、門を出たらお葬式があった。死者を見たと言うんです。お城の中でも当然亡くなる人がいたと思いますが、お城に居る時は王子様に見せない。死者を見て、ビックリした。「自分も死ぬのか」、「今は若くて元気だけれども、やがて死んでしまうのか」と。それで帰ってきてしまった。順序が逆になりましたが、その間、老人を見た。お釈迦さんは若くて武芸も学問も素晴らしい方だったらしいんですけれども、やがて自分もあのように老いて行くのか。今、こんなに元気にしていても、何れ老いて、病になって、死んでいくのか、ということでですね。気持ちを晴らすために、ピクニックに行かせたのに、その度に、王子はガッカリして、余計沈んで帰ってきた。ある時、また城外に出たら、何となく、身も着飾ってはいないけれども、清々しい人に出遇った。「あれは何者だ」と聞くと、「あれは出家者です」とのこと。要するに、「財産やら名誉やら、そういう物への欲を捨てて生きている人です」と言う。王子は、その生き様、姿に心を打たれ帰って来て、「やがて自分も出家者になろう」と思った。王の跡を継いで、国の王になる位を捨て、もうその時は結婚して子供もいたんですけど、それも捨てて出家してしまいます。

苦行放棄

それから、苦行、苦しい修行やら、学問やらをやっていたけれども、身体を痛めつけるだけでは、何の益にもならないということに気がついて、よく言われる、菩提樹の下で座って、一生懸命、今度は考えることを始めたわけです。「何故、人間は苦しむのか」「何故、老いるのか」「何故、死ぬのか」。私たちはね、死ぬのは当たり前ということで、あまり深刻に考えないんですけれども、これは考えたくないだけですよ。自分の死ということを何となく考えたくないから、まあ、今日は何もないから、暇だなと思ってね、じゃ、映画でも見に行くか、なんていうことになって気を紛らわしているだけでしょ。カラオケ行きたいと言っても、今はコロナ禍でそういうことが全然できないんで、随分、窮屈な生活になってますけど、そういうことで生きてるわけです。お釈迦さんが、苦行、身体を痛めつけることを止めて、これは何の益にもならないということで止めて、一生懸命、世の中の、人間に限らず、自然の、宇宙の有り様を見つめ、考え直した。それで、どんどんどんどん核心に迫ってくる時にですね、これは物語ですけれども、いよいよお釈迦様が「何故、人間がこんなことで苦しみ、生きるようになるのか、年老いて死ぬ、そのことに苦しむのか」ということをしっかり考え、そして「世の中はどうなってるんだろう」ということを考え巡った時に、「世の中は何も自分に危害を与えようということはしていない」。自然のありのまま。ただ、それを「自分に都合が悪い」というふうに受け取っている自分の心がある、ということになってくるんですね。