2021年西念寺春季永代経 法話 光林忠明氏(坂東市西念寺)

お釈迦様の「悟り」

お釈迦さんがいよいよ悟りを開くという時に、悪魔の軍勢が攻めて来たということになってます。それを全部、打ち破ったと。その悪魔の軍勢って何かと言うと、ある時は本当に武力の兵士に、ある時は見目麗しい女性になって、ある時は怖い獣になって、全部自分を痛めつけ、殺そうとして来ている。そういうふうに表現されておりますが、これは自分の「妄想」だと。「魔」が攻めてきたというが、「魔」というふうに受け取るのは、自分がそれを「魔」として受け取っているからだと。「妄想」だと。それに気がついた時に、「悟った」ということになってるんです。すべて世の中のことは「妄想」である。苦しみも、悲しみも、喜びも、一時の「妄想」からなってきている。どうして人間はそう思うんだろうと。それは、「世」の、「世」というのは人間の「世」だけではないですね、この世界、宇宙全部の本当の仕組みを知らないからだと。「道理」を知らない。「道理」を知らないで、自分の欲ばかり何とかしようと思っているから、「魔」に見える。それで身構えて、お互い、いがみ合わなければならない。人間の世界もそうなってきている。ということでございまして、それに気がついたら、一切の嵐の如く思われていた「魔」も、世の中のいろんなことに苦しむ人々の苦しみの根も、皆、それで「気がついた」「分かった」と。こういうことを、本当は「悟り」と言います。「正覚」、正覚寺というお寺がありますが、「正覚」は「悟り」という意味です。正しく目覚める。これ「覚り」なんです。これを求めようと。これを得られれば、何の迷いも生じない、ということに至ったわけです。それを今度は、それまで一緒に修行してきた仲間やら、世の中の人々に説き明かして行こうということで、「何故、苦しみが起こるのか」「そこから立ち上がれるには、どうしたらいいのか」ということを、その後40年、80歳になるまで、80歳で亡くなるまで、ずっとインド中を旅しながら、当時は車も自転車もありませんから、托鉢しながら歩いて、説いて回った。その間に沢山のお弟子が出来、仲間が出てきたということになってます。これが仏教の成り立ちです。

煩悩が消えた世界「涅槃」

何の宗教でもそうですけど、偉い人がいただけ、何か悟りを開いたという人だけがいても、それは教えとして用らかない。そのことを人に伝えて、聞いた人が「あっ、そうか」と納得して、「じゃ、仲間になろう。その教えを自分も信じて広めよう。実行しよう」というようになった時に、初めて「宗教」ということが成り立つわけですね。自分一人で考えて、自分一人で喜んでいても、それは何にもならない。人に伝えて初めて活きるということになるわけです。

お釈迦さんが悟りを開いた時に、世界が輝いた。地震じゃないけど、振動したと言う。世界中が輝いた。自然は喜びに雨を降らしたと言う。その雨が甘かったと言うんで、甘茶をお釈迦さんに掛けるという慣わしになってきてるわけです。すべての迷いから目を覚ました、その世界を「涅槃」というふうに表現します。この本堂に掛けてある「涅槃図」はお釈迦さんが亡くなった時の図です。「涅槃」というのは、すべての煩悩が消え去った世界。これを「涅槃」と言います。これを私たちに想像しろと言われても出来ないんですよ。一生懸命、いろんな雑念を払おうと思っても、払えたと思った時は、眠った時なんです。これでは目を覚ましたら、何にもならないんです。それで、後々に多くの人々が、そのお釈迦さんの悟りを本当に実感できるように、具体的に表現して行こうということで表現されたのが、「阿弥陀如来の極楽浄土」ということなんです。