2026年 茨城一組同朋大会 講演より(真宗大谷派)

「鳥の命」と「花の種」

当時、玉川たま がわ大学のインド哲学史の先生で、大谷大学の先生もされていた稲津紀三いな づ き ぞうという先生が僕たちに講義をされました。「タゴールというインドの詩人がおっしゃってますよ、皆さんの心はまだ卵の殻の中ですよと。

インドでは2度生まれることを『ドゥヴィジャ(二度生まれる者)』と、鳥の命にたとえて言うんですよ。一度目は、お母さんのお腹から卵のまま生まれてくる。それは私たちから言えばね、そういう自分の心で生きようとする心は、全部膜を被っとる」と。

教えでは、法体ほう たいと言います。私はその先生から「愛吉くん、いくら社会でいろいろ地位をあてがわれても、心は卵の中ですよ。殻の中で、心はまだ卵として生きとるだけですよ」「仏さんの教えに出会ってね、その親鳥である、あの仏さんの教えが分かった人に出会って、その人から育てられて、卵は親鳥に抱かれて雛になるでしょ。だから私たちも教えを聞いて、雛になっていく苦労があるんですよ」と。「もう殻はいらないと思うと、親鳥がそれを察してね、先生の方からパーンと殻を破ってくださる。そして、卵の外へ出て鳥の命を完成する。それが仏教ですよ」と教えられました。「花の種もそうでしょ」と。「種はそのままでは命を全うしたと言えないでしょ。春になると蒔かれて、水を与えられて、そして肥やしを与えられて、お日様の光で芽が出るでしょ。大地を信頼して、種は芽を出すでしょ。それが種の命でしょ。でも、それだけでは種の命は満足しないでしょ。伸びて、伸びて、伸びて、茎となって、花と咲いて、実がついて初めて枯れていくでしょ」と、そういう講義をされました。

成績良くても「落第」

私たちは、日頃の自分は見えないんです。どんな心か見えないようにできとる。念仏に出会った人は、純粋な心ですから、その人に会うと僕の心は映っちゃう。その先生に初めて出会った時に、僕の根性が丸見えになっちゃった。

その先生に初めて授業で『歎異抄たん に しょう』の「人間を分けたとき、念仏を頼む他力本願た りき ほん がんの人と、自力を頼む、つまり自己中心的に善を積んで悟りや救いを得ようとする自力作善じ りき さ ぜんの人の2種類ありますよ」って聞いて、ちょっと勉強してたから、僕は阿弥陀さんを頼む人として、先生に承認してほしいから、授業終わった時、聞きに行った。「先生から見て、僕は自力作善の人ですか、他力を頼む人のどちらですか」と言ったら、先生がニヤッと笑ってね、「あなたのような方を自力作善じ りき さ ぜんの人というんですよ」と。もう、先生から見えてる。

だから、児玉こ だま先生、竹中先生は僕のことを成績が良くても「落第」と。「君の心は念仏の心がない」。それはダメだって言ってるんじゃない。「学ぶところがあるよ」と。「卵の殻の中で人生終わって欲しくないだろ。親鳥になる心があるんだから」。「親鳥は親鸞聖人しん らん しょう にんや、先に目覚めた人だ。そういう先生につくと、必ず回向え こうといって、あっためられるよ。だからこの学校に、君、残って勉強しな」と言われて、僕は落第生として、先生に認められて学院に残って、勉強させてもらった。それがですね、最高の私の人生の宝物です。もし1年か2年で終わっていたらね、学院のそういう風土、精神的風土、宗教的風土を味わうことなく出ちゃったかもしれない。